隠れんぼ鬼を待ってる 


 なまえが逃げた。
 どこに行ったかしれない。確かに昨日までこの船にいたはずなのに部屋を訪ねるとそこはもぬけの殻で誰かがいた痕跡ひとつ残っていなかった。
 昨夜なまえに好きだと告げた時の顔が脳裏に浮かぶ。耳まで朱に染めて俯く様は嫌がっているようには見えなかった。だが事実、ここになまえはいない。逃げ出すほどに嫌だったのかと絶望しかけるもなら好きにさせてやろうと思えるほど無欲では無い。逃げるのならば追いかけて捕らえるまで。生憎諦めは悪い質だ。なまえには悪いがどうあっても手の内に転がり落ちてきてもらう。
 もう考える隙も与えてやるものか。「トラファルガー船長」とどこか他人行儀におれを呼ぶなまえをもう一度この腕に抱きYESの一言を引き出すべくおれは島に降り立った。



 トラファルガー船長の船に乗って半年。別に海賊になりたくてこの船に乗ったわけではない。目的といえばこの船の船長、トラファルガー・ローの首を取る。その一点につきる。はずだった。
 ホテルのラウンジのソファに深く腰を沈める。程よく耳に届く外の賑わいはトラファルガー船長と出会った島を彷彿とさせた。あの島も北の海にしては温暖な気候で島民も陽気な人が多かった。
 駆け出しのルーキーの割にそこそこ高い懸賞金がかけられた男の手配書が手元の新聞から滑り落ちたあの日。凶悪そうな顔をしているけれど海賊歴が浅いこいつなら私でも出し抜けると思った。船員がまだ集まりきっていないらしく、料理人を探していると風の噂で聞いたのも狙うに至ったきっかけだ。内部に入り込みその首を取ってやろうと思った。
 なのに、どうだ。私の作った料理を食べて美味いと表情を和らげる様や、荷物を運んでいる時にさりげなく手を貸してくれたり扉を開け押さえてくれたりする優しさ。それから敵に襲われた時に庇ってくれた背中の広さ、クルーの話をする時は決まって口角が上がる所。その首を取るために観察していたはずが、上げだしたらキリがないくらい良いところが沢山見えてきてトラファルガー・ローという男に惹かれるのも時間の問題だった。このままじゃダメだと本格的に首を取る準備を進め、今夜決行する、と動いた夜。予想外の方向に事態が転がった。
 タトゥーの彫られた手で私の頬を擽り膝と膝が触れ合うくらいの距離に座ったかと思えば「好きだ」と耳を疑うセリフが飛び出してきた。この男はもしや私の腹の中に秘めた殺意を感じ取りそのようなセリフを吐いたのではあるまいかと疑ったがどうもそうではないようで。油断させ逆に私を殺してやろうという素振りは見せずひたすら真っ直ぐ好意を向けてくるものだからほとほと参ってしまった。何も言わず黙り込んでいると抱き寄せられ男の温もりを一身に受けた。その間も頭にあるのは懐に仕舞ったダガーに気づかれないか否かで。気付かれずに済んだ後私がこの男を殺したいのかそれとも何もなかったかのように振る舞いたいのかは最早判断がつかなかった。
 甘やかなテノールが私の名を呼ぶ。トラファルガー船長にとっては皮肉なことに甘やかな手つきとテノールの両方が私の中の賞金稼ぎとしてのプライドを呼び起こした。この道を選んだ時点で人と暖かな関係を築く道とは決別したのだ。
 私の望みはそうではない。この船で船員として航海し、いつか偉大なる航路へ繰り出すことでは無い。トラファルガー船長の隣で夢を見ることではないはずだ。その首を取り、海軍へ差し出し金を手に入れ北の海でのんびり暮らす。お金が尽きれば次の獲物を狙う。私の居場所はここではない。あんな猛者の集う奇天烈な海へなど行ってたまるか。
 応えは急がずとも良いと解放されたのを好機と捉え、結果私は逃げた。応えることも再びダガーを持つことも出来ずひとまず逃げに徹すると決めた。次海賊を狩る時は情が移る前に仕留めるべきだという教訓を得たのだと思い込むことにした。
 夜にこっそり船を抜け出して島の喧騒に紛れた。遠くでトラファルガー船長が私を呼んでいる。もし見つかればどうなるのだろう。少なくとも逃げは許されなさそうだ。


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